会津ゆかりの人物

会津ゆかりの人物 野口英世

会津とゆかりのある人物ご紹介します。

【会津ゆかりの人物】あ~お

秋月胤永

あきづき かずひさ
文政7年~明治33年(1824~1900)
通称秋月悌次郎。藩校日新館に学び、のちに昌平坂学問所に入った。京都守護職になった藩主松平容保にしたがって、公用方として諸藩との交渉、公武合体の融和に尽力した。戊辰戦争では軍事奉行添役として越後方面に出陣、開城時には米沢へ手代木勝任と共に降伏の使者にたち、禁固され明治5年赦免となる。その後太政官から各高等学校の教職に就き、明治28年熊本第五高等学校を最後に退職した。五高時代の同僚にラフカディオ・ハーン(小泉八雲)がいる。

葦名義広

あしな よしひろ
天正3年~寛永8年(1575~1631)
常陸太田城主佐竹義重の次男で、葦名家を継いだ。義広の葦名相続は佐竹氏と対立していた伊達氏や、佐竹旧臣と葦名譜代との対立を深刻なものにした。 天正17年6月、磐梯山麓の磨上原の戦いで伊達政宗に大敗、黒川城を追われ常陸へ走った。ここに葦名家は事実上滅亡した。翌年豊臣秀吉から常陸国江戸崎を与えられたが、のち関ヶ原の戦いには参加しなかったため徳川家康から領地を没収。兄佐竹義宣の家臣となって秋田にうつり、秋田領角館を領した。

葦名盛氏

あしな もりうじ
大永元年~天正8年(1521~1580)
戦国末期の会津黒川(会津若松)城主。父葦名盛舜の後をついで会津地方征服をすすめ、さらに仙道(中通り地方)へも勢力をひろげ葦名家の全盛時代を築いた。永禄11年ごろ嫡子盛興に黒川城をゆずり隠居したが、盛興が没すると二階堂盛隆に跡をつがせ黒川城にもどり政務をみた。天正8年(1580)黒川城で没した。

飯沼貞吉

いいぬま さだきち
安政元年~昭和6年(1854~1931)
飯盛山で自決した白虎隊の唯一の生存者。 日新館就学中に戊辰戦争が起こり、白虎隊中二番隊に入隊。二番隊は飯盛山で全員自刃したが貞吉は助けられ一命を取り留める。白虎隊の悲劇はこれにより後世に語られる事となる。 明治維新後は貞夫と改名し逓信省で電気技師として各地で勤務。明治38年には札幌に郵便局工務課長として赴任。明治40年の札幌大火の復旧工事などに尽力した。 仙台逓信局工務部長の地位で退職。仙台で病没した。

池上四郎

いけがみ しろう
安政4年~昭和4年(1857~1929)
会津藩士池上武輔の四男として生まれ、明治10年警視庁に巡査として採用され頭角を表す。日本各地の警察署長を歴任、大阪府の警部長を務め、その手腕を余すところ無く発揮し13年間にわたり大阪治安の元締めとして活躍した。大正2年大阪市長に推され3期10年を務めた。退任後は朝鮮総督府政務総監となったが任期半ば東京で没した。秋篠宮紀子さまの曽祖父にあたる。

井上源三郎

いのうえ げんざぶろう
文政12年~慶応4年(1829~1868)
多摩郡日野宿で生まれる。父が八王子千人同心であったことから地元の天然理心流を学んだ。近藤勇、土方歳三の兄弟子にあたる。 1863年浪士組として近藤勇らとともに上洛し、新選組結成後は、六番隊長を務める。慶応4年、鳥羽伏見の戦いの最中、淀千両松付近で銃弾を受けて戦死する。

上杉景勝

うえすぎ かげかつ
弘治元年~元和9年(1555~1623)
会 津領主。越後国上田城に長尾政景の次男として生れ、叔父上杉謙信の養子となった。謙信の死後、同じ養子の景虎を倒し越後・佐渡・越中・能登を領した。信長 の死後は豊臣秀吉の小田原城攻めなどのに出陣し、秀吉政権に参加した。慶長3年(1598)若松城に移封、会津~伊達~庄内~越後の120万石の大領地を 支配した。秀吉の死後は徳川家康に対抗、徳川の会津征伐に備え神指城を築いたが関ヶ原の戦いで工事は中断。家康に破れた景勝は米沢に移封され、会津支配は 終わった。

宇田成一

うだ せいいち
嘉永3年~大正15年(1850~1926)
自由民権運動家、政治家。耶麻郡下柴村(現在の喜多方市関柴町小松)に生れ、日新館に学ぶ。28歳頃から民権運動にたずさわり、明治11年県議会選挙に当選。自由党会津支部を設立し国会の早期開設を建言した。会津三方道路問題の反対の戦闘に立ち、清水屋で官憲に襲撃され(清水屋事件)、東山で逮捕、東京に送還された。明治25、29年には県議会に再当選、晩年は耶麻郡会議長、関柴村長などを歴任した。

遠藤敬止

えんどう けいし
嘉永4年~明治37年(1851~1904)
会津藩士、実業家。鳥羽伏見の戦いの際、会津軍に入り籠城戦にも参加。敗戦後の幽囚生活の後、慶応義塾で経済学を学ぶ。実業界に身を投じ仙台の七十七銀行頭取、仙台商工会議所初代会頭となる。明治23年新政府によって鶴ヶ城が競売に付された時、私財をなげうって落札、松平家へと献上した。城跡は後に松平家から若松市に売却され現在に至っている。
昭和46年敬止の徳をたたえ鶴ヶ城北出丸に顕彰碑が建立された。

海老名季昌

えびな すえまさ
天保14年~大正3年(1843~1914)
父は軍事奉行の海老名季久。幼少期を上総富津で過ごし、ペリー来航事件に遭遇。家禄を継いだ後京都へのぼり禁門の変で功をたてる。蝦夷地警備勤務の後、パリ万国博へ徳川昭武に同行、欧州各国を視察する。26歳で会津藩最後の家老となり会津戦争を迎える。謹慎解除後は警視庁へ入り、山形県警部、北会津郡長などを経て警視庁警部となる。退任後は若松町長、士族同士会長などを勤めた。

海老名リン

えびな りん
嘉永2年~明治42年(1849~1909)
幼児教育・女子教育の先駆者。会津藩士日向新介の娘。海老名季昌に嫁ぎ、夫の留守中の一家を支えた。明治5年警視庁入りした季昌に従い上京。のち季昌が山形・福島郡長になったあと警視庁課長として再度上京した際キリスト教に接し熱心な信者となる。社会活動家として麻布に共立幼稚園を創立し、保母の資格を取る。夫の帰国を機に明治26年会津に私立若松幼稚園(現在の若松第一幼稚園)と私立若松女子高(現在の県立葵高校)を創立した。

大山捨松

おおやま すてまつ
万延元年~大正八年(1860~1919)
会津藩家老山川尚江の末娘。山川浩、健次郎の妹。明治4年、日本初の女子留学生のひとりとして渡米、ヴァッサー・カレッジに学ぶ。帰国後、戊辰戦争で薩軍砲隊長だった陸軍卿大山巖と結婚。当時の外交の舞台だった鹿鳴館の華とうたわれ、日米親善の先駆者となった。

小笠原長時

おがさわら ながとき
永正11年~天正11年(1514~1583)
信濃守長棟の子。弓馬および礼式の名家として代々信州林の館に住す。長時はしばしば武田信玄と戦い遂に破れ、上杉謙信を頼り越後に逃れ後将軍足利義輝の弓馬の師範となった。義輝が三好氏らに滅ばされたため会津に逃れ、芦名盛氏に身を寄せていたが逆臣に妻子ともに殺害された。

おけい

生年不祥~明治4年(?~1871)
明治初期、会津人を中心としたアメリカ入植地若松コロニーへの移民のひとり。団長ヘンリー・スネルの日本人妻の子守役としてアメリカに渡り、明治4年19歳で病死した。墓がカリフォルニア州ゴールドヒルに現存する。出身地といわれる会津若松市には確固たる資料がないが、言い伝えでは市内材木町の桶屋の娘だという。そのおけいの家から約500mの距離にヘンリー・スネルの屋敷跡がある。

小川渉

おがわ わたる
天保14年(1843年)~明治40年(1907年)
旧会津藩時代には日新館に学び、優秀にして江戸の昌平坂にも学んだ会津藩の才人。戊辰戦争後は斗南藩に移住。青森県誕生後は県議会の書記長などを務めた。旧弘前藩本多庸一らと青森新報社を起こしのち社長に就任(青森県新聞記者第一号と言われている。)。自由民権運動を展開し、しばしば投獄されるも「公議正論」をもって青森県民の啓蒙に努めた。著書に会津藩教育の沿革を記述した「会津藩教育考」がある。

【会津ゆかりの人物】か~こ

梶原平馬

かじわら へいま
天保13年(1842年)~明治22年(1889年)
会津藩士。内藤信順もと家老の次男。幕末の多難な時期に若くして家老となり、会津藩の外交責任者として活躍。会津戦争に先だってスネルから武器弾薬を購入する。のちには会津藩の謝罪条件について仙台・米沢両藩の家老らと会談し、総督府に恭順の懇願をしている。会津落城後の半生は不明であるが、近年根室市に墓があることが分かった。

蒲生氏郷

がもう うじさと
弘治2年~文禄4年(1556~1595)
会津領主。近江国日野城主蒲生賢秀の子。13歳の時織田信長の人質になるもその才を買われ次女冬姫をめとった。本能寺の変で信長が亡くなると秀吉と信長の弔い合戦で戦功をあげる。 天正18年(1590)小田原討伐の功で豊臣秀吉より会津拝領となり、秀吉の奥羽仕置を助けた。 文禄元年(1592)黒川城を七層の大天守閣として鶴ヶ城と命名。郭内の町屋敷を郭外に移し新しい町つくりを行った。地名を若松に改め、酒・漆器などの殖産政策を行った。 またキリシタン大名としても知られ、茶の道でも利休七哲の一人。

萱野権兵衛

かやの ごんべえ
天保元年~明治2年(1830~1869)
藩主松平容保が京都守護職にあった際、国家老として内政の責任を担っていた。明治元年(1868)戊辰戦争がおこると、他の家老は自刃あるいは行方不明となったので、事実上の責任者として激務にあたった。敗戦処理に対して藩主父子の助命嘆願に尽力した。その結果、「家老田中土佐、神保内蔵助、萱野権兵衛」が戦争責任者となったが、他の二人はすでに自刃していたので、一人首謀者として明治2年切腹した。

河井継之助

かわい つぎのすけ
文政10年~明治元年(1827~1868)
越後長岡藩家老。嘉永5年(1852)江戸にのぼり佐久間象山らの教えを受け、また蕃書調所の頭取となり西洋事情にも通じた。のち諸国を巡り、松山藩で藩政の実態を学ぶ。藩主忠恭に認められ、郡奉行・町奉行・年寄役とつとめた。 明治元年(1868)家老の時に戊辰戦争がおこり奥羽越列藩同盟として越後各地で新政府軍と戦ったが、長岡城は落城。負傷した継之助は会津方面に逃れたが傷が悪化して、只見町塩沢で亡くなった。

神田重雄

かんだ しげお
明治7年~昭和22年(1874~1946)
会津藩士子孫で青森県八戸市の2~4代市長。33歳で湊町第一区会議員に始まり多くの要職を務めた。昭和4年に発足したばかりの八戸市市議会議長に就任。市長時代はその政治実力で、八戸市の発展に大きな足跡を残した。

北原雅長

きたはら まさなが
天保13年~大正2年(1842~1913)
初代長崎市長。会津藩家老神保内蔵助の次男(兄は神保修理)で北原家を継ぐ。戊辰戦後には萱野権兵衛の自刃に立ちあった。後に長崎県吏となり、日下義雄長崎県知事に見いだされ明治22年初代長崎市長となる。その後東京下谷区長にもなったが、引退後は浜松で和歌に親しみ72歳で没した。著書に京都守護職時代の会津藩の動向を記した「七年史」がある。

郡長正

こおり ながまさ
安政3年~明治4年(1856~1871)
会津藩家老、萱野権兵衛の次男。明治のはじめ豊津小笠原藩(福岡県)に留学した。ある日郷愁を覚えた長正は母の手紙に食べ物が口に合わないと書いた。後母より届いた戒めの手紙を落としてしまい、拾った小笠原藩士の子弟に大衆の面前でののしられた。長正は会津武士の屈辱をはらそうと藩対抗剣道大会で完勝、その後切腹して果てた。時に16歳の若さだった。

近藤勇

こんどう いさみ
天保5年~慶応4年(1834~1868)
幕末の京都に名をとどろかせた新選組の局長。 当時の新選組は京都守護職松平容保のもと、会津藩支配下の浪士だった。 新選組は鳥羽伏見の敗戦によって北へ敗走。近藤は板橋(東京)の処刑場で斬首刑に処せられ、京都三条河原にさらされた。会津入りした土方歳三によって遺髪を葬ったとされる墓が、会津若松市内の天寧寺にある。

【会津ゆかりの人物】さ~そ

西郷四郎

さいごう しろう
慶応2年~大正11年(1866~1922)
柔術会津藩士志田貞二郎の三男。三歳の時戊辰戦争が起こり一家は若松から津川に移住し、そこで成人した。明治15年上京、下谷永昌寺の講道館に入門し、近代柔道の礎を築く。その間西郷頼母の養子となるが、実子だという説もある。小兵ながら山嵐の大業をあみ出し小説「姿三四郎」のモデルとなる。明治23年講道館を去り、後に長崎で「東洋日の出新聞」同人、長崎遊泳協会創設者として大きな功績を残した。大正11年に尾道で病没した。

西郷頼母

さいごう たのも
天保元年~明治38年(1830~1903)
33歳で会津藩家老職に就任。田中土佐と共に、会津藩主松平容保に京都守護職辞退を進言。
戊辰戦争では和議恭順を唱え抗戦派に命を狙われ城下を脱出。のち箱館戦争に参加する。降伏後は館林藩に幽閉。赦免後明治4年伊豆松崎に行き、郷学謹申学舎塾長を務めた。3年後福島に戻り棚倉の都々古別神社宮司となったが、西南の役を起こした西郷隆盛との交流がきっかけで解雇。以後日光東照宮禰宜職などを経て明治36年若松で没する。

斉藤一

さいとう はじめ
天保15年~大正4年(1844~1915)
幕臣の山口祐助の次男として生まれる。新選組結成後は、その腕を買われて三番隊の組長となる。沖田、永倉に並ぶ剣客で剣術師範も務めた。 鳥羽・伏見、甲州勝沼の戦いを経て会津に辿り着く。負傷した土方に代わり隊長として新選組を指揮した。会津戦争が敗戦間近になると、『会津を見捨てるのは正義ではない』と、一部の同士とともに会津に残る。その後、藤田五郎と改名し、会津藩士の娘時尾(ときお)と結婚。後半生を会津人として生き、市内七日町阿弥陀寺に眠っている。享年72歳。

佐川官兵衛

さがわ かんべえ
天保2年~明治10年(1831~1877)
文武両道に秀で、会津藩京都守護職時代には学校奉行・別選組隊長・諸生組隊長を兼ね、「鬼佐川」「鬼官兵衛と呼ばれていた。鳥羽伏見の戦いで奮戦、戊辰戦争の北越戦では会津軍指揮として、長岡藩河井継之助らと共に各地に転戦。戦後明治7年に警視庁の巡査に応募、明治10年の西南戦争には警視隊隊長として参戦し黒川村で戦死した。

佐々木只三郎

ささき たださぶろう
天保4年~明治元年(1833~1868)
会津藩士佐々木源八の三男として会津若松に生れる。27歳の時幕臣佐々木矢太夫の養子となると、幕府講武所にて剣術方師範役に任ぜらたほどの剣豪であった。攘夷派と通じた清川八郎暗殺、新選組結成に係わった。京都見廻組が結成されるとその隊長として新選組と共に京都の治安維持に努めた。のち薩長同盟の仲介役となった坂本龍馬暗殺を指揮し近江屋 での殺害に関与したと言われている。慶応4年の鳥羽伏見の戦いに参戦し被弾して負傷、和歌山の紀三井寺まで落ち延びたがそこで没した。墓は紀三井寺にあったが近年会津若松市の武家屋敷に移された。

柴四朗

しば しろう
嘉永5年~大正11年(1852~1922)
小説家、ジャーナリスト、政治家、筆名東海散士。日新館に学び戊辰戦争では銃をとって戦っている。 明治12年渡米、ハーバード、ペンシルバニア両大で学び帰国。明治18年滞米中に想を得た「佳人之奇遇」を著し一躍有名になる。その後、農商務大臣の秘書を務めたが大臣の下野に伴い辞職し著作に没頭、ジャーナリストとしても活躍。明治31年大隈・板垣内閣の農商務次官、大正4年外務参事官をつとめる。福島県人初の陸軍大将柴五朗の兄。

柴五郎

しば ごろう
万延元年~昭和20年(1860~1945)
福島県初の陸軍大将。旧会津藩士柴佐多蔵の五男。戊辰戦争で母・妹が自刃し、八歳の時斗南藩へ転封。どん底の開拓生活で一家は辛酸をなめた。明治6年上京し、陸軍幼年学校から士官学校へ進む。日清戦争で少佐、日露戦争では聯隊長として活躍。戦後駐英大使館付武官を経て、大正8年、福島県初の陸軍大将となる。斗南藩時代を書いた「野辺地日記」、不屈の生涯を書いた「ある明治人の記録」などの著がある。実兄の柴四朗は文人・政治家として名をなした。

新城新蔵

しんじょう しんぞう
明治6年~昭和13年(1873~1938)
天文学者。市内の酒造家の6男として生まれる。神童と呼ばれ、東京帝国大学物理学科を卒業後、全国各地で絶対重力の測定を行うなど地球物理学研究の基礎を築いた。ドイツ留学後教授に就任し、昭和4年京大総長に推される。東洋天文学史の研究により、生活に残る迷信や因習の打破にもつとめた。

渋川善助

しぶかわ ぜんすけ
明治38年~昭和11年(1905~1936)
2.26事件の首謀者の一人で唯一の民間人。会津若松市七日町の海産物問屋の長男に生まれた。陸軍士官学校予科に進み成績優秀であったが、陸士本科卒業目前に教官と衝突し退学となる。その後上京し明治大学に学び、国家主義運動にかかわる。2.26事件に唯一の民間人として加わり、昭和11年に死刑となった。

千少庵

せんのしょうあん
天文15年~慶長19年(1546~1614)
茶道千家宗匠、千利休の次男。天正19年(1591)千利休切腹後、密かに蒲生氏郷を頼って会津に逃れた。ちょうど修復中の鶴ヶ城の本丸東南隅に茶室指月庵(麟閣)を造営する。氏郷も利休七哲の筆頭であった。家康と氏郷のとりなしで秀吉の許しを得て、文禄元年11月赦免状が出て翌春京へ帰った。

【会津ゆかりの人物】た~と

田中玄宰

たなか はるなか
寛延元年~文化5年(1748~1808)
会津藩家老で三代の藩主に仕えた名宰相。会津藩名家老田中正玄(まさはる)四世の孫。34歳で家老に任じられた際、会津藩は天明の大飢饉であった。玄宰は藩主容頌に領民の救済と藩政の改革を願い出たが受け入れられず、一時病と称して辞職。その間兵学や経済について研究し、一年後復権の際に藩政の大改革「天明の改革」を提言し大きな成果をあげた。また、藩校「日新館」を創設、会津藩が文武ともに天下の雄藩となる基礎を築いた。
会津藩樺太出兵の最中、61歳でこの世を去る。「わが骨は鶴ヶ城と日新館の見えるところに埋めよ」と遺言し、墓はそれらの見渡せる小田山の山頂にある。

竹久夢二

たけひさ ゆめじ
明治17年~昭和9年(1884~1934)
明治から昭和の初期にかけて活躍した画家、詩人。明治42年にはじめて会津若松を訪れた時に「まてど暮せど来ぬ人を…」で有名な「宵待草」のイメージが浮かんだといわれている。

秩父宮勢 津子妃殿下

ちちぶのみやせつこひでんか
明治42年~平成7年(1909~1995)
明治42年9月9日、故松平恒雄(旧会津藩主松平容保の四男)の第1女子としてご誕生になり、昭和3年に故秩父宮雍仁親王とご結婚されました。 故勢津子妃は、宮中行事等のご公務をお務めになるほか、国際親善、厚生、スポーツ、学術研究振興の分野でも関係団体の活動を支援されました。特に、結核予防会総裁として、長年にわたり結核の予防活動に取り組まれました。 平成7年8月25日に薨去(こうきょ)されました。

手代木勝任

てしろぎ かつとう
文政9年~明治36年(1826~1903)
京都守護職時代の会津藩公用人。会津藩士佐々木源八の長男で、手代木勝富の養子となった。京都守護職松平容保の公用人として渉外関係を担当、新選組や所司代、町奉行などを指揮し浪人の取締に当たった。戊辰戦争では伏見の戦いで各地で転戦、奥羽列藩同盟で諸藩へ連絡を取り籠城戦では若年寄として奮戦。開城時には米沢へ秋月悌次郎(秋月胤永)と共に降伏の使者にたち、諸藩邸へ禁固され明治5年赦免となる。その後新政府に仕え明治11年岡山県吏となり16年岡山区長に進んだ。京都見廻組の佐々木只三郎は実弟。

【会津ゆかりの人物】な~の

直江兼続

なおえ かねつぐ
永禄3年~元和5年(1560~1619)
越後国魚沼郡上田庄(現在の新潟県南魚沼市)の坂戸城主、長尾政景(景勝の父)に仕える樋口兼豊の長男として生まれた。幼名は与六(よろく)。幼いころから 上杉景勝に仕えていた。上杉家の家督をめぐる争い「御館の乱」の後、後継者となった上杉景勝は、越後を平定した。また名家の直江家を継いだ兼続は与板城主 (現在の長岡市)となった。天正16年(1588)景勝の上洛に従った兼続は、豊臣秀吉の計らいにより従五位下山城守に任ぜられ、慶長3年(1598)に上杉景勝が会津120万石に移封されると兼続は6万石を与えられ米沢城主となった。会津の「神指城」築城に尽力するが、徳川家康の会津攻めにより中止となる。「関ヶ原の戦い」の後、米沢30万石に減封された上杉家の執政として米沢藩の基礎を築いた。

中野竹子

なかの たけこ
嘉永3年~明治元年(1850~1868)
娘子軍の隊長。江戸詰勘定役中野平内の長女で江戸に生れ、薙刀と学問を修める。戊辰戦争がおこると郷里に帰り、母孝子、妹優子とともに児童に読み書き、薙刀などを教えていた。新政府軍が城下に迫ると、出陣の許可を得て母や妹ともに柳橋の戦場に出撃。敵弾に倒れ、妹の手により介錯され果てた。墓は会津坂下町の法界寺にある。

新島八重

にいじま やえ
弘化2年~昭和7年(1845~1932)
会津藩士山本権八の娘で山本覚馬の妹。戊辰戦争の際、男装して会津の大砲隊式に参加。開城の折り「明日よりはいづこの誰かながむらん なれし大城に残す月影」の有名な歌を城壁に残す。
後に京都に出て覚馬の指導のもと、英語や洋風生活を身に付ける。新島襄と知り合い結婚、キリスト教の洗礼も受ける。新島襄の東北伝道には彼女の影響があった。

西忠義

にし ちゅうぎ
安政3年~昭和9年(1856~1934)
会津藩士。日高開発の恩人と言われる。明治4年16歳で斗南藩若松出張所書記、若松県職員となる。21年の磐梯山噴火の現地調査報告の功により、警視庁に抜擢。明治34年に浦河支庁長として日高に赴任して、明治42年小樽支庁長に転ずるまで日高開発のために全力を傾注した。日高振興の政策を打ちたてて施設の整備、農林水産業の発展、日高民心の啓発につとめ全日高の物質的精神文化に貢献した。浦河町の西舎神社は西忠義を祭神の一神とする西霊社の後身。

丹羽五郎

にわ ごろう
嘉永5年~昭和3年(1852~1928)
田中玄宰の次の会津藩家老丹羽能教の曾孫。戊辰戦争幽閉後、東京で学び警視庁巡査となる。西南の役で功をあげ陸軍少尉も務めた。神田和泉橋所長を最後に辞職。曽祖父丹羽能教にならい未開の原野を拓いて村を造り国恩に報いるべく、明治25年に移民を率いて北海道に渡り、瀬棚郡利別の荒野を拓いて丹羽村を建設した。

野口英世

のぐち ひでよ
明治9年~昭和3年(1876~1928)
細菌学者。耶麻郡三ツ和村(現猪苗代町)の貧しい農家に生まれる。1歳半の頃左手に火傷を負った。小学校卒業と同時に会津若松市会陽医院で左手を手術、その後同院で医学の勉強をした。 明治29年上京、21歳で医師の資格を得て、のち北里柴三郎の伝染病研究所に入所。明治33年渡米し、蛇毒や梅毒を研究、大正2年のトレポネーマ発見で学位が贈られ、ロックフェラー研究所の助手となった。同4年に帝国学士院恩賜賞を受け帰国。その後は中南米を回り、昭和3年にアフリカで研究していた黄熱病に感染して没した。

原 直次郎

はら なおじろう
安政2年~大正元年(1854~1912)
白虎隊寄合一番隊隊長の原早太の次男。(早太は、会津戦争で津川口、門田村で奮戦し、9月26日に戦死する。) 明治22年1月、「苫小牧村外15カ村戸長役場」が現在の苫小牧市に設置され、その初代戸長に原直次郎が就任した。併せて室蘭警察署勇払分署長も兼ねる。 その後、勇払白老漁業組合頭取、勇払郡水産組合長、勇払郡畜産組合長を歴任し、苫小牧村村会議員として王子製紙苫小牧工場の誘致に尽力した。また、日本初の掘り込み式人造港湾の必要性を力説するなど、苫小牧市の発展の礎を築いた。

伴百悦

ばん ひゃくえつ
生年不明~明治3年(1870年)
会津藩士。戊辰戦争では萱野隊副将として越後方面を転戦、長岡城陥落後は会津で籠城戦に参加した。開城後城の内外の2000余りの遺体は、新政府軍により賊軍の名のもと遺体埋葬が禁じられた。ようやく賎民による埋葬がゆるされたので、百悦は自ら賎民に身を落とし作業を監督した。遺体は阿弥陀寺や長命寺など16ヶ所に埋葬された。後に民政局監察兼断獄久保村文四郎の残忍な仕打ちに怒り、仲間と共に彼を斬り殺し越後新津へ逃れた。しかし新津郊外大安寺村慶雲庵で村松藩兵に包囲され、ついに自害した。(享年44歳)

土方歳三

ひじかた としぞう
天保6年~明治2年(1835~1869)
文久3年(1863)幕府の浪士隊結成に試衛館の仲間近藤勇らと共に参加上洛し、のち近藤を助けて新選組を組織した。京都守護職会津中将お預りとして不逞浪士の取り調べ、市中見廻りを行なった。 慶応4年(1868)鳥羽・伏見の戦に敗れ、近藤勇が流山で捕らえられ板橋で斬首された後、新選組の生き残りを率いた土方歳三は、北関東、会津と転戦した。宇都宮の戦いで手負い、会津の清水屋旅館で養生し全快したが、鶴ヶ城籠城戦では、東の猪苗代方面にあって入城かなわず、仙台にて榎本武揚の艦隊に合流し新天地に希望を求めて蝦夷地函館に上陸する。5月11日政府軍陣地に切り込みをかけ、敵弾を受けて討死した。

日向内記

ひなた ないき
文政9年~明治18年(1826~1885)
会津藩士。 戊辰戦争のさなか、明治元年(1868)山川浩の若年寄昇進に伴い砲兵隊長となり、次いで白虎隊中二番隊頭に任命された。中二番隊を率いて戸ノ口原に出陣したが、食料調達に出かけ隊士らとはぐれてしまう。(その後中二番隊は飯盛山に落ち延び、悲劇の自刃をする。)鶴ヶ城の籠城戦では、再編された白虎隊の隊長となり、郡上藩凌霜隊も配下となって西出丸を防衛した。戦争後は斗南に移住したが明治4年に会津に帰り、定職を持たず亡くなるまで喜多方に住んだ。

広沢安任

ひろさわ やすとう
天保元年~明治24年(1830~1891)
斗南藩の実力者で、新しい青森県の生みの親。会津藩時代、松平容保が京守護職を拝命した際、お供をして上洛。戊辰戦争に際しては、藩公の無実と戦争の愚かさを訴え単身総督府に乗り込み投獄される。(のち英外交官アーネスト・サトーの進言で救出)戊辰戦争後、松平家の再興を掛け陸奥国(斗南藩)への移住を主張。斗南藩では少参事として山川浩を補佐し施政を展開。廃藩置県後は合県運動を進め現在の青森県の基礎を作った。明治政府からの再三の官職の要請を拒否。「野にあって国家に尽くす」の信念の元、谷地頭(三沢市)に洋式牧場を開設して青森県のみならず、わが国の畜産界に多大な貢献をした。

ヘンリー・スネル

生没年不明
オランダ公使館勤務のプロシア人。慶応3年に会津藩砲術指南(軍事顧問)となり、平松武兵衛と名乗って城下に屋敷を賜っている。明治元年の若松城下、越後戦線に行動した記録がある。明治初期、会津人が中心となってのアメリカ移民入植地、若松コロニーへの移民を実行した人物とされている。1871年以後家族とともにその消息を絶ってしまった。

保科正之

ほしな まさゆき
人物説明慶長16年~寛文12年(1611~1672)
会津松平家初代藩主。徳川秀忠の子だが、母が側室ゆえ武田信玄の娘見性院に養育された。信州高遠の城主保科正光の養子となる。 三代将軍家光は正之を実弟として、最上山形、続いて会津の城主とした。 家光没後正之は幼将軍家綱を補佐、文治主義を徹底させた。 若松滞在は生涯3度であったが腹心の家老らが統治にあたり、特に家訓十五ヶ条で子孫に徳川家への絶対忠誠、法の絶対服従を示した。 没後は猪苗代の土津(はにつ)神社に祀られた。 また、その分霊が札幌市の琴似神社に祀られている。

【会津ゆかりの人物】ま~も

松江豊寿

まつえ とよひさ
明治5年~昭和31年(1872~1956)
9代若松市長。旧会津藩士松江久平の長男。
斗 南藩移住後、軍人を志して陸軍士官学校に入学。卒業後中佐の時徳島(板東)俘虜収容所所長となった。第一次世界大戦で収容されたドイツ兵捕虜を、捕虜は愛 国者であって犯罪者ではないので人道に扱うべきと主張し住民と交流させた。町村では牛乳、バター、パンなどが作られ、寺院では捕虜たちにより第九が初めて 演奏された。
大正11年より9代若松市長となり、上水道計画を決議。引退後は飯盛山の白虎隊墓地広場の拡張に尽力、弟松江春次の南洋開発にも協力したが、第二次世界大戦後病没した。

松江春次

まつえ はるじ
明治9年~昭和29年(1876~1954)
旧会津藩士松江久平の次男。会津中学第一回卒、苦学の末、現・東工大を卒業。大日本精糖に入社し米国留学後日本で初めての角砂糖の開発に成功。第一次世界 大戦後、南洋興発を創立し社長に就任、サイパン島での製糖事業に成功し「南洋開発の父」と呼ばれた。また当時のお金で33万円を若松に寄付、現在の県立会津工業高校機械科が新設された。

松平容保

まつだいら かたもり
天保6年~明治26年(1835~1893)
会津松平藩9代目の藩主。岐阜県高須藩松平義建の子で、会津藩主松平容敬の養子となった。幕末京都守護職として、京都の治安と公武合体に力を尽くし、時の考明天皇の厚い信頼を得る。その後倒幕派は形勢を逆転、戊辰戦争へ突入する。会津落城後は妙国寺に謹慎、のち和歌山藩に移された。明治5年に謹慎を説かれ、13年より東照宮宮司に任ぜられた。のちの生涯は職のかたわら歌道にのみ没頭し世を去った。

松平定敬

まつだいら さだあき
弘化3年~明治41年(1846~1908)
岐阜県高須藩松平義建の子で、会津藩主松平容保の弟。安政6年(1859)に桑名藩主松平家の養子となった。兄容保と共に、京都所司代として京の治安維持に努めた。明治元年(1868)桑名藩降伏後、定敬は桑名藩江戸屋敷の藩士を率いて各地で転戦、津川を経て会津軍と合流した。新政府軍が若松領内に迫ると、容保と共に滝沢本陣へ出陣。鶴ヶ城籠城戦では容保に諭され桑名兵を引き連れ、新選組土方歳三らと共に米沢方面へ落ち延び、仙台より箱館の五稜郭に入った。しかし桑名藩家老酒井孫八郎に説得され単独降伏。尾張藩のち津藩に預けられ、明治5年に恩赦となった。

松平恒雄

まつだいら つねお
明治10年~昭和24年(1877~1949)
駐英大使。参議院議員。松平容保の四男として御薬園にて生まれる。明治35年東京帝大を卒業、外交官・領事館試験に首席で合格し外務省に入る。清国・イギリス・フランスなどを経て駐米・英特命全権大使となる。常に日本外交の主流として、「誠意をもって外交の本義とす」を信条に平和外交を推し進めた。昭和3年長女・勢津子姫が秩父宮妃となり、戊辰以来の苦汁をなめた会津の人々を歓喜させた。

三善長道

みよし ながみち(初代) 寛永10年~貞享2年(1633~1685) 会津の刀匠の第一人者であり、江戸時代屈指の名工。三善家は四国松山から、寛永4年(1627)に 加藤嘉明に従って会津に移住し、三善家三代目の藤四郎から三善長道を称した。作刀に天性の資質があり、若くして陸奥大掾(むつだいじょう)の官位を受領する。文政13年(1830)に著された「古今鍛冶備考」では、切れ味が最も鋭い刀「最上大業物(さいじょうおおわざもの)」十四工の1人と紹介され、さらに評価が高まった。墓は市内蚕養町の法華寺にある。

「参考:五鍛冶六家」
会津の刀匠を系統化すると、古川、下坂、三善、中条、鈴木の五鍛冶と、そこから分家等により派生した下坂別家、角、皆川、村田、若林、長尾の六家に分けることができる。 最も古いのは、室町時代末期に濃州(岐阜県南部)から来た古川家であり、ついで寛永4年(1627)に下坂、三善、中条が加藤嘉明に従い予州(愛媛県)から移住、さらに寛永20年(1643)に鈴木家が保科正之に従い最上から移住している。 下坂別家は宝永の頃(1700年代)に分家独立したもので、他家は幕末に一家をなした。

【会津ゆかりの人物】や~よ

山鹿素行

やまが そこう
元和8年~貞享2年(1622~1685)
兵学者、儒学者。若松城下で生まれた素行は6歳の時に父と共に江戸へ出て、9才で林羅山の門下に入った。素行は武人として実践的な孔子の教え(聖学)の原点に帰ることを主張し、武士道を政治哲学まで高めた(山鹿流兵法)。31才の時に赤穂藩に仕え、後江戸で「聖教要録」を出版。時の執権会津藩主保科正之は、朱子学批判の罪で素行を赤穂浅野家に配流した。延宝3年(1675)許されて江戸へ帰る。 素行の教えは武士社会に大きな影響をあたえた。忠臣蔵の大石内蔵助ら赤穂藩士、幕末の吉田松陰も山鹿流を学んでいる。

山川浩

やまかわ ひろし
弘化2年~明治31年(1845~1898)
会津藩家老職の家に生まれる。19歳で京都にいた藩主容保の命で上京し奏者番となる。幕府の樺太境界議定に随行、世界の体勢を学ぶ。会津戦争では新政府軍に包囲された鶴ヶ城を、彼岸獅子舞を奏して入城、総指揮をとる。明治2年松平家の家名を再興、翌年斗南藩大参事となり藩務にあたる。廃藩後は陸軍省に入り、少将まで進む。この間、東京高等師範学校長などを兼務。弟健次郎と共に編集した「京都守護職始末」は維新史の新生面を開いた。

山川健次郎

やまかわ けんじろう
安政元年~昭和6年(1854~1931)
会津藩家老職の家に生まれる。日新館に学び仏語を修得。戊辰戦争の時は年少のため編入された白虎隊を除隊。戦後猪苗代で謹慎中に脱走し新潟で漢学、佐渡・東京で英語・数学を学んだ。明治4年に渡米、エール大学で物理学の学位を得て、明治34年東京帝大総長、のち九大、京都帝大総長、貴族院議員などを経て男爵となる。健次郎は「長州藩は勤王倒幕、会津藩は勤王佐幕」として、「京都守護職始末」や「会津戊辰戦史」を編集、維新史上で四面楚歌だった会津藩の立場を明らかにした。

山本覚馬

やまもと かくま
文政11年~明治25年(1828~1892)
会津藩士山本権八の長男。日新館に学び文武兵学を修得、後江戸へ出て佐久間象山、勝海舟を訪ね、蘭学、様式砲術を研究。会津藩蘭学所を設置し、会津軍近代化に功があった。 禁門の変では砲兵隊の指揮を取ったが、鳥羽・伏見の戦いで捕らえられ薩摩屋敷に幽閉された。失明と脊髄を損傷しながらも、口述筆記の「管見」と題する経世論を認められ明治2年釈放される。やがて京都府顧問や京都商工会議所会頭として活躍。またキリスト教に共感、新島襄らの同志社創立にも協力した。

横田俊益

よこた とします
元和6年~元禄15年(1620~1702)
会津藩の教学の祖。幼少から博学多才で、17歳で堀杏庵、林羅山に学ぶ。加藤明成に仕えて信任を得、その後も学問をもって保科正之に仕えた。寛文4年(1664)、日本における地方教育の先駆けといわれる学問所・稽古堂を創設し藩士子弟の教育に当たった。

吉田松陰

よしだ しょういん
天保元年~安政6年(1830~1859)
長州藩士杉百合之助の次男として生まれ、後に叔父吉田大助賢良の養子となった。幼少から山鹿流兵学を学び、10歳で明倫館で兵学の教授を行った。
23歳の時、山鹿流兵学最高の免許を受ける。翌年東北諸藩を歴訪し、会津には往復二度立ち寄り、日新館には特に興味を示して見学した。のち海外渡航の企てに失敗し投獄される。安政の大獄により伝馬町獄舎において死刑。獄中で松陰が開いた松下村塾からは、高杉晋作、伊藤博文など幕末・明治の多くの人材が出ている。

【会津ゆかりの人物】わ~ん

若松賎子

わかまつ しずこ
明治元年~明治29年(1864~1896)
会津藩士・松川勝次郎の長女として会津に生まれる。会津落城後、横浜の織物商の養女となり横浜フェリス女学院に学び、卒業後、同校の教員を務めるかたわら有名なバーネットの「小公子」などの翻訳を発表。巖本善治と結婚後、意欲的に創作活動を続け、その仕事は日本近代文学の発展に大きな役割を果たしたといわれている。有名なバイオリニスト巖本真理は賎子の孫にあたる。

参考文献

会津若松市公式ホームページ

会津若松市戊辰150周年記念事業

会津若松観光ナビ