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「郡山」地名の由来
郡山市内には、約1万5千年前の旧石器時代から中世にかけての遺跡が、およそ1,400か所以上あり、それらの遺跡が当時の文化をしのばせてくれます。現在の郡山駅から5〜6分ほど西に歩いた場所にある清水台遺跡は、奈良・平安時代の遺跡です。調査は、随時行われており、15ヘクタールにも及ぶ遺跡には、布目瓦が出土され続けています。「郡山」の地名も郡衙(ぐんが)(郡役所)が置かれていたという歴史的事実に由来しているといわれています。
鎌倉から戦国時代の郡山
伊豆伊東の住人の子、伊東祐長(すけなが)が安積の地を領有し、以後その子孫たちが定住し、繁栄しました。兵農二本立てで開拓が進められましたが、戦国時代到来とともに戦場と化し、荒廃していきました。
江戸時代・繁栄する郡山
徳川家康の命で整備された奥州街道とともに、郡山は繁栄しました。大動脈とともに脇街道も整備され、宿駅としての地位を確立しました。1736年の「郡山村明細帳」では、人口の3分の1は農業、残り3分の2は商業に従事していたとされ、当時の二本松藩の資金源的な存在となりました。しかし、周辺の村々は年貢の取り立てが厳しく、貧しい生活で人口の増加は停滞し、なかには減少したところもありました。
明治時代の郡山・安積疏水の開さくと先人の開拓者精神
明治の初め、近代の夜明けとともに新しい日本の殖産興業が進められました。明治6年(1873年)、県の役人で旧米沢藩士の中條政恒の働きかけによって、阿部茂兵衛ら富商25人が大槻原(開成山)一帯の開拓を行う会社「開成社」を設立しました。現在郡山市民の憩いの場となっている開成山公園は、当時、かんがい用の池として使用されていたもので、安積開拓が生んだ貴重な遺産です。明治9年(1876年)中條政恒は、明治天皇行幸の下検分のため来郡した、時の官僚、大久保利通に面会を求め、かんがい用水を猪苗代湖から引くことを力説しました。後にそれは、認められることとなり、安積平野約4,000町歩の開墾と安積疏水開さく事業は、国の直轄事業として進められることになります。
安積疏水の恵み
安積疏水の計画によって水利が開けることが約束されると、政府の士族授産政策の下、全国の士族が安積原野に入植しました。その第一陣が明治11年(1878年)11月11日に到着した旧久留米藩士です。その後続々と入植し、全9藩、約2,000人が郡山に移り住みました。
それから1年後の明治12年(1879年)に、安積疏水の起工式が行われ、延べ85万人を動員し、明治15年(1882年)に完成しました。その後、幾多の努力があって水田が開かれ、桑が植えられ、養蚕も盛んになるなど安積開拓の成果が実を結び、急速な発展を遂げました。
大正・昭和時代の郡山
大正13年(1924年)、郡山町は小原田村と合併し全国で99番目の市制を施行しました。農業、工業、商業のバランスの取れたまちは、急速な発展を遂げました。しかし昭和に入り、太平洋戦争中には4回もの空襲を受け、530名余の尊い命が奪われるなど悲しい時代がありました。
新産業都市、そして中核市へ
戦後の新生日本の誕生の下、郡山市も急速に発展しました。昭和39年(1964年)には常磐・郡山地区新産業都市制度の指定があり、同40年には旧安積郡9か村、田村郡3か村と合併し、今日の郡山市が誕生しました。また、昭和50年(1975年)の東北自動車道の首都圏までの開通、平成3年(1991年)の東北新幹線の東京駅乗り入れ、平成5年(1993年)の福島空港開港、そして平成9年(1997年)の磐越自動車道全線開通などを契機に、「人」「モノ」「情報」が集まる中核市、そして経済県都として成長を続けています。
【情報元】保存版:2004年 暮らしのガイドブック郡山